「分かる」と「できる」

振付することを念頭に置いたクラスが進行しています。


無意識を意識化するワーク。

これは、導いてくれる人がいないと

とてつもなく困難な作業。


意識化されたことをコントロールしていくこと。

これは自分との戦い。

自分の何と戦っているのかは疑問です。


「分かる」ことができたとき

「できる」ような錯覚に陥ることがある。

でもこれは大間違い。

だけど時々

「できる」が「分かる」を追い越していることがある。


分からないこと、できないことは情けないが

まだ私に

傷つくことができる若さがあるのは

嬉しいことだ。


意識とか無意識とか

全体とか部分とか

客観的事実とか心理的事実とか

思い込みとか仮説思考とか


そもそもそういう概念がなかったら

生きていることに疑問を持てないかもしれない。

まして表現の意義なんて

考えることなどできないかもしれない。


赤ん坊のときは

世界をどんな風にとらえていたんだろう。

自分をどうコントロールしていたんだろうか。


いずれにしても

振り付けるときには

ある尺度が必要なのだ。

私は世界をこんな風に見てますよ、と

言える何かが必要なんだろう。


松永 亜紀子