現実に危機感をもっている人

MLIが始まってから2ヶ月。メンバーの多少の変化の兆しを見ながらも、まだ足りない、まだ足りないんだなぁ。と思索に耽る毎日を過ごしています。MLIを立ち上げる準備を始めたのは、確か昨年の最初の方。1月か2月あたりだったと記憶しています。立ち上げるに至る具体的な理由となると一言では説明がつきませんが、いわゆるダンスというものの捉え方を考え直してみる必要があるなと思ったのと、自主的に動きを生み出してゆくことができる人材を増やしたいと感じたところにあります。それが2014年の初頭の出来事でした。

 

とかく現在のダンスに至っては、ダンス作品を作る人、作品において自らの身体を用いて表現を行うダンサーともに、受け身の姿勢が強くなっているのではないかなと感じています。それは現在のダンスを取り巻く経済基盤に由来するところも大きいとは思いますが、単純に作家・振付家・ダンサーを職業とする当事者の思考性にも問題があるようです。

作品を作る、作品において自らの身体を用いて表現を行うということは、作品内においてのみ完結するものではないということを、もっと多くの作家・ダンサーには考えてもらいたいと思います。作品内容と同じ質量で重要とされている、現実との折衝について。

 

例えば、現在日本国内において自らの作品を発表したい、あるいは世に出したいと思えば、数多くの企画やコンペティションなどが用意されています。それを利用すればいい。だた、そこで作品を発表するという状況において、自身の作品がどれだけ現実とコミット出来ているかとなると、それは疑問視しなければならないところだと思います。なにせ全て用意されているのですから。発表すべき空間、あらかじめ決められた時間、フォーマットされた音響と照明。上演に必要とされる人員、広報や集客等。やれることとやれないことの判断基準すら、企画者側に委ねられている。

そういった状況で作家やダンサーの現実感、同時代性、思想や哲学といったものが作品化されることは、本当に稀なことであると思います。

 

もちろん、そのような企画は利用すればいいとも思う。

 

ただ、全て用意された企画の中で自らの作品を発表する時、自分には見えていない多くの現実が存在しているのだということ。

自主的にその部分を見るようにして、さらにそこと向き合えるようになってゆくことが、本当に、これからの日本のダンスには必要とされているのではないでしょうか。

当たり前のことですが、作家やダンサーは「お客さん」であってはならないのです。

 

ダンスについて考え、自主的に動く。

 

こんな当たり前のことが、今、必要とされていることに、多少の危機感は感じるけれど。

 

 

三浦